グルメの街

茶碗蒸し好きです。

昔から大晦日に祖母の家で夕食を食べる時、
極めて眩い輝きを放っていたのが、茶碗蒸しです。
茶碗蒸しが神光に包まれていた理由は、
なんと、蟹の腕が入っている とか、
いくらに覆われている とかではなく、
私の好物が茶碗蒸しだからという一点に集約されます。 茶碗蒸しが好きな理由については特に述べる必要がないので、 省略します。

キムチ好きです。

料理の才能がない母が、一般人の舌にチューニング可能な 料理が白米・レタスのスープ・そして豚キムチです。 キムチとは、豚肉と赤い漬物を同時に炒めた料理だと本気で思っていました。
家庭の事情で母親の顔より豚キムチを見ているため、 キムチが好きだし、孝行するつもりです。

以上ふたつが私の人格形成に多大なる影響を与えた料理だと言えます。

が、数年後、

上京して一番の衝撃といえば、
落書きみたいな路線図や、
居酒屋のマズい枝豆ではなく、
茶碗蒸しとキムチの温度です。


私は温かい茶碗蒸しを食べたことがありませんでした。
スーパーに売っている茶碗蒸しは冷たいし、
茶碗蒸しは豆腐の親戚だと思っていため、冷たいまま食べるのが普通だと思っていました。
当然祖母の手製茶碗蒸しも冷えていました。(冬だから?)
東京でくら寿司の200円くらいの茶碗蒸しを食べた時、
東京は文化の火葬場だ、と思いました。

私は冷たいキムチを食べたことがありませんでした。 純粋な漬物としてのキムチは食べたことがなかったし、
前述の通りキムチとは豚キムチのことだと思っていました。 母の豚キムチが温かったのは言うまでもありません。
東京で牛角のキムチを食べた時、
東京は文化の流刑地だ、と思いました。

ここまでで多くの人が思うのが、
「茶碗蒸しやキムチが意味不明な温度なのは、
東京という場所が理由ではない。」
ということです。

どうやらそうらしい。


思えば、小さい頃に外食に行った記憶が殆どありません。
家庭内の不和だけが原因ではなく、
私自身が食の辞書登録に興味がない子供でした。

したがって、大学時にとんかつ屋でバイトするまで ヒレとロースの違いなんてわからなかったです。
鶏むねと鶏ももの違いなんて今もわからないし、
パクチーの味はしないし、
じゃがりこの味は全て同じ味です。

やはり東京とは、食文化、ひいては茶碗蒸し・キムチ文化を侮辱する私のような罪人に罰を与えるために日本の中央にあるのだと、上越新幹線に乗り込みながら思ったわけです。

一つ断っておきたいのが、今は温かい茶碗蒸し・冷たいキムチが大きな潮流であると言っただけで、私は冷たい茶碗蒸し・温かいキムチ(豚キムチ)がいずれ日本を席巻するだろうと予期しています。

ちょうど今、
「温かい茶碗蒸し・冷たいキムチを許すな(Stop the massacre of food culture)」
と叫ぶ横断幕が完成したところです。